ユダヤ人の断罪(ローマ2:1-5)





諸国民の罪をひとしきり論じたパウロは、ここで対象を変えてユダヤ人の罪を論じ始めます。ユダヤ人の罪に関する話は2章から38節まで続きます。諸国民の罪が不敬虔や不道徳を特徴としていたのに対し、ユダヤ人の罪は誇りやかたくなな態度を特徴としています。




2:1 それゆえ,人よ,あなたがだれであるにしても,ほかの者を裁くなら,言い訳はできません。

この部分で「あなた」と呼びかけられているのはユダヤ人です。諸国民の罪が糾弾されるのを聞いていたユダヤ人の中には「自分は彼らのような罪人ではない」と思い上がっていた人もいたことでしょう。パウロはそのようなユダヤ人たちに論議の矛先を向けます。




2:1 他の人を裁くその事柄において,あなたは自らを罪に定めているからです。

パウロは「もし自分のことを棚に上げて諸国民を裁くなら、あなたは自分で自分の首を絞めることになるだろう」と言い、こうして非ユダヤ人だけでなくユダヤ人も罪の下にあることを明らかにしていきます。




2:1 それは,裁くあなたが同じことを行なっているからです。

他人を裁くユダヤ人のどこに問題があったのでしょうか。それは「裁くあなたが同じことを行なっている」ところでした。ユダヤ人といえど諸国民の罪と無縁ではありませんでした。実際は彼らも同じ罪を持っていました。にもかかわらずユダヤ人は優越感に浸ってこの事実を無視していたのです。




2:2 それでもわたしたちは,神の裁きは真実に即し,こうした事柄を習わしにする者たちを非とするものであることを知っています。

人間の裁きは概して自己中心的です。同じ罪を犯しているのに他人には厳しくて自分には甘かったりするものです。

しかし神の裁きは人間の裁きと違います。神の裁きは絶対の真理に基づいているため罪を行う者はみな等しく裁きを受けます。ユダヤ人だから裁かれないとかそういうことはありません。わたしたちが気にすべきなのは人がどう裁くかではなく神がどう裁かれるかです。




2:3 しかし,人よ,あなたは,こうした事柄を習わしにする者たちを裁き,同時に自分がそれを行なっていても,自分のほうは神の裁きを免れられる,というような考えを抱いてでもいるのですか。

ユダヤ人は割礼を受けていることや律法を授かっていることを理由に「自分は神の裁きの対象外だ」と思い違いをしていました。そのため諸国民と同等の悪を行いながら平気で諸国民を断罪し、2節に記されていた神の裁きの原則を見くびっていたのです。このような者が神の裁きを免れるなどどうしてありうるでしょうか。




2:4 それとも,神の温情があなたを悔い改めに導こうとしていることを知らないために,その親切と堪忍と辛抱強さとの富を侮るのですか。

ユダヤ人は他の面でも神の裁きについて誤解していました。神が裁きを差し控えておられる理由についての誤解です。

いまのところ神は彼らの上に裁きを下しておられませんが、これは決して彼らに罪がないからではありません。むしろ神が並外れた慈愛を示し、一刻も早くユダヤ人が罪を悔い改めることを望んでこられたからにほかならないのです。




2:4 それとも,神の温情があなたを悔い改めに導こうとしていることを知らないために,その親切と堪忍と辛抱強さとの富を侮るのですか。

神の意志に感謝して悔い改めようとしないのはまさしく神の恩恵を侮る行為です。

「親切」と訳されたギリシャ語chréstotésは「慈悲」や「情け深さ」を意味し、神がユダヤ人に表してこられた過分の親切や愛の保護を表しています。

「堪忍」と訳されたギリシャ語anochéは「忍耐」などの意味を、「辛抱強さ」と訳されたギリシャ語makrothumiaは「寛容」などの意味を含みます。これらは当然注ぐべき怒りを抑制してこられた神の忍耐を表しています。

神は歴史を通じて親切、堪忍、辛抱をユダヤ人たちに惜しみなく示してこられました。それなのに彼らは少しも神を恐れず、かえってその温情を軽蔑する態度に出ています。もしこの態度を改めないなら、いずれ神の怒りは頂点に達し、ユダヤ人たちの上に一気に注ぎ出されることとなります。




2:5 しかしあなたは,自分のかたくなさと悔い改めのない心によって,憤りの日,また神の義の裁きが表わし示される日における憤りを,自らのために蓄えているのです。

神はユダヤ人たちに「親切と堪忍と辛抱強さとの富」というたくさんの財産を与えてこられました。彼らはその富をありがたく受け、蓄え、恩恵にあずかるべきでした。ところが彼らはその富をまるで価値のないもののようにないがしろにしました。

その結果今度は何を蓄えることになったでしょうか。神の憤りです。「蓄える」と訳されたギリシャ語thésaurizóは「宝庫に宝を積む」といった意味があります。つまり彼らは神の恩恵を富として積む代わりに神の憤りを積んでいるというのです。何と恐ろしい状態でしょう。






2:5 しかしあなたは,自分のかたくなさと悔い改めのない心によって,憤りの日,また神の義の裁きが表わし示される日における憤りを,自らのために蓄えているのです。

神の怒りは最後の裁きの日に彼らに表されます。

118節は諸国民に下る怒りについて「神の憤りは表わし示されている」と述べ、これがいますでに生じていることを示していますが、一方で25節はユダヤ人に下る怒りについて「神の裁きが表わし示される日における憤り」と述べ、これが将来生じることを示しています。もちろんユダヤ人への神の憤りも現在すでに注がれているのですが、彼らの場合はことのほか来たるべき裁きの日に顕著な仕方で神の怒りの打撃を被ることとなるでしょう。今は神の怒りに気づかないほどに誇り高ぶっていますが、誇り高いそのかたくなな心も最後の裁きにおいてようやく打ち砕かれることになるからです。