差出人と受取人②(ローマ1:4-7)





1:4-6 (そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストで,わたしたちは,その名に関してあらゆる国民の間に信仰の従順があるようにと,この方を通して過分のご親切と使徒職とを受けたのであり,それら諸国民の間にあって,あなた方もまた,イエス・キリストのものとなるために召された者たちなのです。)

「み子」がイエス・キリストであることはクリスチャン・ギリシャ語聖書において明らかですが、パウロはあえてこのことを示し、良いたよりの中心がイエス・キリストであることを明確にしています。イエス・キリストはパウロや使徒たちだけでなく信仰を持つすべてのクリスチャンの主です。




1:4-6 (そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストで,わたしたちは,その名に関してあらゆる国民の間に信仰の従順があるようにと,この方を通して過分のご親切と使徒職とを受けたのであり,それら諸国民の間にあって,あなた方もまた,イエス・キリストのものとなるために召された者たちなのです。)

次にパウロは主イエス・キリストと自分たちの関係を説明します。パウロを含む使徒たちはキリストから二つのものを授けられました。まず「過分のご親切」です。

パウロは自分たちが神とキリストから過分の親切を豊かに受けていることを認識していました。過分の親切は救い、信仰、その他のあらゆる賜物という形で与えられます。もちろんこれは使徒たちのみならずすべてのクリスチャンが受けているものです。

しかしこのような一般的な過分の親切に加えて、使徒たちには特別な過分の親切が与えられました。それが「使徒職」です。

「使徒職」と訳されたギリシャ語apostoléは「使徒(任務を負わされて派遣された者)の務め」を意味します。使徒たちは神とキリストから遣わされ、その職責にふさわしく人々に良いたよりを告げ知らせるという任務を遂行したのです。

良いたよりが重大なものであるゆえにそれを宣べ伝える責任も重大ですが、パウロはこの責任もまた神の恵みによって授かったものと認め、(コリント第一3:10、コリント第一15:9-10、エフェソス3:2-13) 喜んでこれを果たしました。




1:4-6 (そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストで,わたしたちは,その名に関してあらゆる国民の間に信仰の従順があるようにと,この方を通して過分のご親切と使徒職とを受けたのであり,それら諸国民の間にあって,あなた方もまた,イエス・キリストのものとなるために召された者たちなのです。)

使徒たちに与えられた使命は人々を「信仰の従順」に至らせることでした。良いたよりの言葉を聞き、信じ、従うよう人々を導くこと。これが使徒職を受けた者の目標です。この働きがキリストの名に栄光を帰すためのものであることは言うまでもありません。

「信仰の従順」という表現からわかるとおり「信仰」と「従順」は密接な関係にあります。信仰とはすなわち神への従順であり、逆に不信仰とは神への不従順です。従順は人間が神に対して持つべき根本的な態度ですから、これを失った状態で信仰を維持することはできません。




1:4-6 (そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストで,わたしたちは,その名に関してあらゆる国民の間に信仰の従順があるようにと,この方を通して過分のご親切と使徒職とを受けたのであり,それら諸国民の間にあって,あなた方もまた,イエス・キリストのものとなるために召された者たちなのです。)

4-6節前半ではキリストと使徒たちの関係が説明されていましたが、4-6節後半ではキリストとこの手紙の読者たちの関係が説明されています。

すでに見たとおり使徒たちはあらゆる国民を信仰に導くという使命を負っていましたが、このあらゆる国民の中にこの手紙の読者たちも含まれており、彼らも他のクリスチャンと同じくキリストのものとして召されていました。神によってイエス・キリストのうちに召されたという点では、使徒たちも当時のクリスチャンたちも、そして現代のわたしたちもみな同じです。




1:7 聖なる者となるために召され,神に愛される者としてローマにいるすべての人たちへ:

この手紙の読者すなわち受取人はローマに在住するクリスチャンたちです。

彼らは神との関係でいうと、信仰により神に愛されている者たちでした。また世との関係でいうと、神に召されて世から聖別された者たちでした。「聖なる者」であることと「神に愛される者」であることはすべてのクリスチャンに共通する要件です。




1:7 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストからの過分のご親切と平和があなた方にありますように。

受取人に次いであいさつが記されています。

「過分のご親切」は罪の許しを与える神の恵みを、「平和」はそれにより罪が許された者の心に臨む平安を指します。神とキリストから来るこの二つはクリスチャンの日常生活を支える根本的な要素であり、そのどちらも欠かすことはできません。

なおここには「父なる神」と「主イエス・キリスト」というお二方が挙げられています。「主イエス・キリスト」という表現については4-6節の注解で考慮しましたので、ここでは「父なる神」という表現について少し説明を加えておきます。

クリスチャン・ギリシャ語聖書では神のことが「わたしたちの父なる神」と呼ばれています。この「父なる神」という呼び方、実はヘブライ語聖書には一度も出てきません。古い契約においてイスラエルの民が個人として神の子と見なされることはなかったからです。国民という集団として神の子と呼ばれることはありましたが、一個人として見ると、イスラエル人は「神の民」または「神の僕」という立場にありました。

しかし新しい契約においてこの状況に変化が生じ、クリスチャン各自は霊によって「神の子」としての立場を与えられるに至りました。古い契約の時代よりも一層親密で直接的な神との関係に導き入れられたのです。わたしたちはこの立場に基づき、イエスの教えどおり神を「父」と呼ぶことができるわけです。




子供は父親を名前で呼んだりしません。普通は「お父さん」と呼びます。また子供は父親が自分にとって唯一無二の存在であることを知っています。そのため「名前で呼ばないと世間の他の父親たちと区別できない」などと考えたりもしません。

同様にクリスチャンは神を「父」または「御父」と呼ぶことに何ら違和感を覚えません。また祈る際にもイエスが教えられた「天の父よ」という呼びかけが自然に出てくるものです。それは父なる神が自分たちクリスチャンにとって唯一無二の存在であり、自分が神の子とされたことを確信しているからです。

もし「神を名前で呼ぶべきだ」と主張するクリスチャンがいるとすれば、残念ながらその発言はその人が神の子とされたことの意味を十分に理解していないか、そのことを確信できていないか、あるいはそもそも神の子とされていないかのいずれかであることを示す発言だといわなければなりません。