偶像崇拝②(ローマ1:21-25)
1:21 彼らは,神を知りながら,それに神としての栄光を付さず,また感謝せず,その推論するところにおいて無能な者となり,その悟りの悪い心は暗くなったのです。
不敬虔な人々は被造物を通して神を知ることができるにもかかわらず神を知らない者のように行動します。
彼らは「神としての栄光を付さない」、すなわち神を神として崇拝することを拒み、神の栄光を別のものに向けます。
また「感謝しない」、すなわち自分が被造物の一員として神の恵みを受けていることを無視し、感謝の念の欠如を示します。
また「感謝しない」、すなわち自分が被造物の一員として神の恵みを受けていることを無視し、感謝の念の欠如を示します。
彼らは神から与えられた理解力や心を正しく働かせないため神の神性を認めることができないのです。その結果神の目に暗愚な者となります。
1:22-23 自分は賢いと唱えながら,彼らは愚かとなり,不朽の神の栄光を,朽ちる人間の,また鳥や四つ足の生き物やはうものの像のようなものに変えました。
そのうえ霊的な闇の中にいるという自分な哀れな現実に気づかないまま自分は賢者であると思い込むことにより、ますます愚かであることを露呈します。
1:22-23 自分は賢いと唱えながら,彼らは愚かとなり,不朽の神の栄光を,朽ちる人間の,また鳥や四つ足の生き物やはうものの像のようなものに変えました。
不敬虔な人々はその愚かさの発露として偶像崇拝を行います。古代のギリシャやローマの宗教のように「朽ちる人間」を偶像視してみたり、エジプトの宗教のように「鳥や四つ足の生き物やはうもの」、つまり種々の動物をかたどった像を拝んでみたりするわけです。
1:24 そのため神は,彼らをその心の欲望に合わせて汚れに渡し,彼らの体が彼ら自身の間で辱められるようにされました。
不敬虔な人々は偶像崇拝にふけったことの結果として別の面でも自分自身を汚すことになります。
ここでいう「汚れ」は「彼らの体が彼ら自身の間で辱められるようにされた」という言葉からもわかるとおり性的な汚れを指しています。
なぜ偶像崇拝を行う者が性的な汚れにまで身を任せるようになるのでしょうか。それは心の欲望に駆られて行動することが彼らの常とするところだからです。
「欲望」と訳されたギリシャ語epithumiaは「禁じられたものを欲しがること」を意味しますが、この禁じられたものへの欲求により一方では神でないものを崇拝し、一方ではみだらな行為にふけるのです。偶像崇拝に関与する者が自分の行為をその罪だけにとどめることができず、別の罪の領域に容易に足を踏み入れてしまうのも不思議ではありません。
実際に偶像崇拝の行為が姦淫などの汚れた行為と密接に関連していることは不信仰なイスラエルの例からもわかります。(エゼキエル20:30-31、ホセア2:1-13) 神に対して身勝手に振る舞いながら道徳的に清くあるということはできないのです。
しかしながら不敬虔な人々が汚れに進むことは単なる当然の成り行きではなく、神が意図された罰であるということも忘れてはなりません。
不敬虔な人々の結末ついてパウロは「神が彼らを汚れに渡された」という書き方をしています。これは「神が能動的に彼らを汚れに進ませた」という意味にとらえるのが中立的な見解ですが、それではあまりにも神が無慈悲であるように見えるためこれを「彼らが汚れに突き進むことを神が容認した」という意味にすぎないととらえる見解もあります。
不敬虔な人々の結末ついてパウロは「神が彼らを汚れに渡された」という書き方をしています。これは「神が能動的に彼らを汚れに進ませた」という意味にとらえるのが中立的な見解ですが、それではあまりにも神が無慈悲であるように見えるためこれを「彼らが汚れに突き進むことを神が容認した」という意味にすぎないととらえる見解もあります。
いずれにせよ神は束縛してまで人間をご自分に従わせようとはされず、自分の好きなように行動したいという者がいればご自身の愛の手を放してその者が自分の意思のままに進むようにされます。アダムの場合もそうでしたし、神を認めようとしない不敬虔な人々の場合も同じです。もちろんどの場合にしても人が汚れに渡されるのは当人の不敬虔な態度に起因する罰ですから、それを神のせいにすることはできません。
1:25 すなわちそれは,神の真理を偽りと換え,創造した方より創造物をあがめてそれに神聖な奉仕をささげた者たちです。
不敬虔な人々のことをパウロは「創造物をあがめてそれに神聖な奉仕をささげた者たち」と言っています。偶像崇拝はまさに神に関する知識がはなはだしい仕方で退化した結果です。あろうことか創造者だけにささげるべき栄光を創造物にささげる行為だからです。
さらに創造物を崇拝する行為は「神の真理を偽りと換える」あからさまな違反行為であり、真の神を無視する重大な罪です。
1:25 創造した方こそ永久にほめたたえられるのです。アーメン。
諸国民の偶像崇拝を断罪したパウロはその由々しい罪のありさまを堪えがたく思い、ここで創造者である真の神に対して賛美の声を発します。パウロの敬虔な態度が表れています。
1:25 創造した方こそ永久にほめたたえられるのです。アーメン。
「アーメン」(ギリシャ語amén)は「そうなるように」という意味のヘブライ語です。ユダヤ人には、会堂で行われる聖書朗読や祈りの後にアーメンと言うことで同意の意思表示をする習慣がありました。これが初期クリスチャン会衆にも取り入れられ、祈りの後にアーメンと唱える習慣が定着しました。
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