差出人と受取人①(ローマ1:1-4)
ローマ人への手紙は一般の手紙と同じように筆者のあいさつから始まります。1-6節で差出人のこと、7節前半で受取人のこと、そして7節後半であいさつが述べられていますが、これはパウロの他の手紙にも見られる形式です。
1:1 イエス・キリストの奴隷であり,使徒となるために召され,神の良いたよりのために分けられたパウロから―
この手紙の差出人はパウロです。パウロが三つの言葉で自己紹介していることに注目してください。
1:1 イエス・キリストの奴隷であり,使徒となるために召され,神の良いたよりのために分けられたパウロから―
一つ目は「イエス・キリストの奴隷」です。ギリシャ語doulosは「奴隷」と訳して間違いないのですが、奴隷ほど過酷な扱いを受けるような身分ではなく、どちらかというと「僕」とか「召し使い」などに近い意味合いを持つものと考えたほうがよいかもしれません。doulosの特色は主人への絶対的服従の態度です。パウロは「イエス・キリストの奴隷」ということで、自分がキリストへの服従に徹する者であり、この方に一生をささげて奉仕する者であることを示しているのです。クリスチャンとして実にすばらしい態度です。
1:1 イエス・キリストの奴隷であり,使徒となるために召され,神の良いたよりのために分けられたパウロから―
二つ目は「使徒となるために召された者」です。パウロはかつて熱心なユダヤ教徒としてクリスチャンに激しい迫害を加えていましたが、ある日ダマスカスの道で主イエスに会い、この方から主の名を諸国民に携えて行く者として召されたのです。(使徒9:1-16)
「使徒」と聞くと十二使徒を思い浮かべるかもしれませんが、これ以外にもパウロなど一部の人たちが「主から直接任命されて遣わされた者」という意味で使徒と呼ばれています。
1:1 イエス・キリストの奴隷であり,使徒となるために召され,神の良いたよりのために分けられたパウロから―
三つ目は「神の良いたよりのために分けられた者」です。パウロはガラテア書の中で「自分は生まれる前から良いたよりの伝道者として神に選ばれていた」と述べています。(ガラテア1:15-16) 彼はこう公言することで、良いたよりを宣明するという自分の使命を強調し、同時に自分が選び分けられたのが神の憐れみによるものであることを際立たせています。
以上のようにパウロはキリストとの関係、使徒職、選び分けられた事実という三点をもって自己紹介をしています。この自己紹介はこの手紙に重みを加え、読者の心に筆者への親しみと敬意を起させるものとなっています。
1:2-3 その良いたよりは,神がご自分の預言者たちを通して聖なる書の中にあらかじめ約束されたもので,神のみ子に関するものです。
本来1-7節は差出人から受取人へのあいさつを述べる箇所でした。短くまとめたければ、1節の「パウロから」と7節の「ローマにいるすべての人たちへ」だけで十分なはずです。2-6節は何のためにあるのでしょうか。
1節で「良いたより」という言葉を用いたパウロは、この「良いたより」というものが何かを説明する必要があることに気づき、2-3節でそれを説明し始めます。ところが説明はそれで終わらず、パウロは「良いたより」を説明した文の中に出てきた新たな言葉に対してもさらなる説明を加え始めます。そしてその説明は6節にまで及んでいます。こうして説明に説明を重ねているのが2-6節なのです。
さて、1節で「神の良いたよりのために分けられた」と自己紹介したパウロは「良いたより」とは何かを明らかにすることにします。
さて、1節で「神の良いたよりのために分けられた」と自己紹介したパウロは「良いたより」とは何かを明らかにすることにします。
「良いたより」と訳されているギリシャ語はeuaggelionです。「良い」といわれているのは、これが人類の救いにかかわる喜ばしい内容のものだからであり、「たより」といわれているのは、宣べ伝えられることで人々の間に広まる形態のものだからです。
良いたよりは使徒たちの時代に新しく作り出されたものではありません。神がずっと前からヘブライ語聖書時代の預言者たちを通して約束しておられたものなのです。良いたよりは聖書に収められているゆえに聖なるものであり、永遠に及ぶ神の計画の中で約束されているゆえに深い意義を持つものです。
こうしてパウロは良いたよりの神聖さと意義を示し、この良いたよりに関与する任務の重大さを強調します。
1:2-3 その良いたよりは,神がご自分の預言者たちを通して聖なる書の中にあらかじめ約束されたもので,神のみ子に関するものです。
良いたよりの内容はまさしく「み子に関するもの」です。
「良いたより」と聞くとすぐに「王国の良いたより」を連想する人もいるでしょう。確かに聖書は王国の良いたよりについて何度も言及しており、特にマタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書などイエスの復活以前の時期を取り扱った書の中で述べられています。
とはいえ見落とせない次の事実があります。クリスチャン・ギリシャ語聖書の原文において「良いたより」とそれに関連するギリシャ語は130回以上出てきますが、それが「王国についての良いたより」を指している場合はわずか10回ほどです。これに対し、その音信が「キリストについての良いたより」または「御子に関する良いたより」を指している場合は非常に多く、実に50回近くに及びます。
実際イエスの復活以降の時期に使徒たちが宣べ伝えていたのはキリストについての良いたよりでした。これはキリストの復活によって良いたよりの内容が完成され、神の王国の実体がまさに御子イエス・キリストであることが明らかになったことの表れでもあります。
良いたよりは御子こそが中心であり、すべてなのです。この理解は聖書が教える「良いたより」という概念を正確に把握するうえで不可欠です。
良いたよりは御子こそが中心であり、すべてなのです。この理解は聖書が教える「良いたより」という概念を正確に把握するうえで不可欠です。
1:3-4 そのみ子は,肉によればダビデの胤から出ましたが,聖なる霊によれば,死人の中からの復活により,力をもって神の子と宣言された方です。
良いたよりが「み子に関するもの」と述べたパウロは、この御子がだれであるかをさらに説明するため御子の実体を二つの側面から明らかにしています。
一つは「ダビデの胤」で、これは御子が人性を有する方であることを示しています。肉の方面から見ると、イエス・キリストはダビデ王の子孫として生まれた正真正銘の人間です。
一つは「ダビデの胤」で、これは御子が人性を有する方であることを示しています。肉の方面から見ると、イエス・キリストはダビデ王の子孫として生まれた正真正銘の人間です。
1:3-4 そのみ子は,肉によればダビデの胤から出ましたが,聖なる霊によれば,死人の中からの復活により,力をもって神の子と宣言された方です。
もう一つは「神の子」で、これは御子が神性を有する方であることを示しています。霊の方面から見ると、イエスは人の子であると同時に神の子として神の性質を帯びておられました。
御子が初めから神の子であったことは言うまでもありませんが、とりわけ復活した事実により神の子であることが一層明らかに示されました。「 死人の中からの復活により」とあるのはそのためです。
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