イスラエルの過ち(ローマ10:16-21)





救いに必要なのはキリストを信じることであり、これは決して難しいことではありません。そうであればイスラエルが不信仰に陥ったことはますます不可解に思えてきます。パウロは16-21節でイスラエルの不信仰の原因を探り、これが神の落ち度によるものでなくあくまでイスラエルの過ちであったことを指摘します。




10:16 しかしながら,すべての人が良いたよりに従ったのではありません。

良いたよりは、すべての人が主イエス・キリストの名を呼び求めるようになることを目的として宣べ伝えられました。しかし実際には良いたよりを信じなかった人も少なくありませんでした。




10:16 イザヤは,「エホバよ,わたしたちから聞いた事柄にだれが信仰を置いたでしょうか」と言っているからです。

ただ上記の事実は驚くに及びません。そうなることはイザヤ531節でも預言されていたからです。ここに引用されているとおり良いたよりが広く伝えられたとしても、それを聞いた人が一人残らず信じるわけではないのです。実際のところ信仰に導かれる人の数は、「だれが信仰を置いただろうか」と問わなければならないくらい少ないなのかもしれません。




10:17 ですから,信仰は聞く事柄から生じるのです。

14-15節で学んだキリストを呼び求めるようになるプロセスの二番目と三番目が17節で再度述べられています。確かにキリストに対する信仰はキリストのことを聞かなければ生まれません。




10:17 一方,聞く事柄はキリストについての言葉によるのです。

そしてキリストのことを聞くためには「キリストについての言葉」が宣べ伝えられなければなりません。




10:18 しかしながら,わたしは言います。彼らは聞かなかったわけではないでしょう。

では逆にキリストについての良いたよりを聞いた人は必ずクリスチャンになるということでしょうか。そうでないことはイスラエル人の例からわかります。イスラエル人の多くは主イエス・キリストに信仰を置きませんでしたが、問題は彼らがキリストについての言葉を聞く機会がなかったことにあるのでしょうか。そうではありません。




10:18 実に,「その音は全地へ出て行き,その発言は人の住む地の果てにまで行った」のです。

良いたよりは使徒たちの伝道によりイスラエルにあまねく行きわたりました。イスラエルばかりか当時知られていた世界の至る所に響きわたっていたのです。その様子は詩編194節の言葉どおりでした。

引用された詩編は「物を言わない自然界さえもが神の栄光を賛美している」という趣旨のことを言っているものですので、本来は良いたよりを告げ知らせる使徒たちの働きと無関係な聖句です。とはいえ自然界が発する賛美と使徒たちの宣教には似たところがあります。発する声がどんなに微小であっても、結果的には世界中に響きわたるようになるという点です。パウロはこの特徴を目立たせるため詩編の言葉を巧みに用いたのです。

イスラエルの例からわかるのは、彼らが良いたよりを耳にしなかったというより、耳にしたにもかかわらず信じなかったということです。彼らは「わたしは良いたよりを聞いていない」との口実で不信仰の言い訳をすることができないのです。




10:19 しかしながら,わたしは言います。イスラエルは知らなかったわけではないでしょう。

パウロはイスラエルの不信仰の原因を粘り強く模索します。18節では「彼らは良いたより聞かなかったのか」という問題を提起しましたが、そうではないことが明らかになったため今度は「彼らは良いたよりを知らなかったのか」という問題を提起しています。しかし知らなかったということも考えられません。ローマ書では頻繁にヘブライ語聖書が引用されていますが、この点からもわかるとおりイスラエルには律法や預言者たちを通して良いたよりがすでに十分に啓示されていたのです。イスラエル人は洞察力をもってヘブライ語聖書を研究することにより良いたより知ることができたはずです。




10:19 最初にモーセはこう言っています。「わたしは,国民ではないものによってあなた方にねたみを起こさせ,愚鈍な国民によってあなた方に激しい怒りを起こさせる」。

諸国民さえもが信仰を持つようになることは申命記3221節に予告されていました。イスラエルはモーセの指揮下で初めて国家形態を持つようになりましたが、その時代すでに諸国民の救いが予告されていたのです。

モーセのこの言葉は、イスラエルが神に背いて偶像礼拝を行うなら神もイスラエルに背を向けられるようになることを述べています。そして「国民ではないもの」である諸国民に、またこれまで神を知らなかったゆえに「愚鈍な国民」と呼ばれてきた諸国民に神の過分の親切が示されるようになることを述べています。神の目的は、諸国民に特別な関心を向けることでイスラエルを嫉妬させ、本心に立ち返らせるということでした。確かにいまや良いたよりによって多くの諸国民が救いに入っていますが、実のところこれはモーセの預言が今日成就しているという話にすぎません。




10:20 しかし,イザヤはすこぶる大胆になってこう言っています。「わたしは,わたしを探していなかった者たちに見いだされ,わたしを求めていなかった者たちに明らかになった」。

諸国民が信仰を持つようになることはイザヤ651節にも「すこぶる大胆に」予告されています。

エホバはイザヤを通してイスラエルではなく諸国民がご自身のもとに身を寄せるようになるとお告げになりました。この言葉には長年顧みてきたイスラエルの民から背を向けられる神の憂いがにじんでいます。逆に神を求めていない諸国民からは思いがけず見いだされるというのです。確かに諸国民が救いに召されるようになることはイザヤのこの言葉から明らかです。




10:21 しかし,イスラエルについてはこう言っています。「わたしは,不従順で,口答えをする民に向かって,ひねもす自分の手を伸べた」。

逆にイスラエル人の不信仰はイザヤ652節に予告されています。

イスラエルはかたくなな態度をとり続けました。それでもイスラエルに対するエホバの愛は変わりませんでした。神は罪を重ねるイスラエルを見捨てず、手を差し伸べ続けられました。にもかかわらずイスラエルはエホバの熱情と心痛をよそに平然と反逆し、不従順な態度を改めなかったのです。